芸術・文化・ゆかりの先人
■碌山美術館
日本近代彫刻の扉を開いた荻原守衛(碌山)の作品と資料を 永久に保存し、一般に公開するために1958年4月22日に開館しました。美術館建設は、長野県下の全小中学生の生徒をはじめとする29万9100余人の力によって、碌山の生地北アルプスの麓安曇野穂高に誕生しました。碌山と関係の深い優れた芸術家たちの作品をあわせて蒐集保存し、 日本近代彫刻の流れと展開を明らかにしようと努めている美術館です。


■井口喜源治記念館
人格教育の先覚者として、キリスト教の精神に基づき1898年(明治31年)に私塾研成義塾創設し、清貧に甘んじ独力で34年間にわたり多くの子女(入学者700余名)の教育に努めた井口喜源治を顕彰し、遺品などを保存展示しています。
■小川大系(おがわ たいけい)(1898年(明治31)~11月25日1980年(昭和55))
彫刻家。穂高神社の飾り物制作から文展・日展作家になる。郷土の碌山・山本安曇・松沢求策の顕彰活動に尽力。北村西望に師事。「中田又重郎」が絶作。
農業の傍ら表具師の修行をし、穂高町の飾り物に才能を発揮しました。昭和8年、35歳の時、彫刻家への念やみがたく、上京しました。山本安曇※(注1)に才能を認められ、北村西望(文化勲章受賞・長崎の平和像作者)に入門し、門人随一と評価されました。代表作は、安曇野の男をテーマにした「投網」 と練兵場に取材した「馬」の連作があります。図案や建築設計にも才を発揮し、北村西望の別邸の設計も行いました。その後は、文展・日展等官展系作家として活躍しました。1941年(昭和16)には文展無鑑査となりました。 戦災でアトリエが焼失し、郷里へ疎開し、戦後は郷里にとどまり、碌山の顕彰活動の先頭に立ち、碌山美術館建設計画の中で、具体的な設計図を作る等活躍しました。
※山本安曇(注1):穂高立足生まれ
※参考:安曇野ゆかりの先人たち
昭和四年大遷宮飾物「元寇の役(四場面)」(人形飾り物として頂点を極めた作品と言われている)

■松沢求策(まつざわ きゅうさく)(1855年(安政2)~1887年(明治20))
9歳にして、近くの高島章貞の私塾「星園塾」に入り、11歳で四書五経を読了し、桂園派の和歌を学び、15歳ころ上京して、国学者野田千頼に、国学と和歌を学びました。20歳の時、学校世話役と拾ヶ堰の堰守を委任されました。
1878年(明治11)、演説会に登壇し、松本新聞にたびたび投書すると共に、坂崎斌が進める民権運動に協力して猶興義塾を開きました。「民権鑑嘉助面影」の執筆に取り掛かり、翌年、松本常盤座で上演しました。その年、松本新聞編集長、月桂社の編集長に就任しました。1880年(明治13)2月1日、奨匡社設立準備会が開かれ、翌々日、大阪国会期成同盟大会へ参加し、永田一二と共に、国会開設願望書起草委員に選ばれました。11月17日から27日まで、大日本国会期成有志公会が開かれ、11月17日に政党結成の提案を行いました。この大会で期成同盟常務委員に選ばれ、自由党の事務を兼ねて、全国的民権運動のために活躍しました。1881年(明治14)、東洋自由新聞社長西園寺公望退社について檄文を書き配布したために、東京裁判所で判決を受け、懲役70日に処され、石川島の牢獄に入獄しました。1882年(明治15)、八丈島の開発に尽力しました。1883年(明治16)、 長野県会議員に当選し、翌年、県立中学校の設立案を提案し、本会議で可決されました。1887年(明治20)、結核のため病床に伏し、32歳で亡くなりました。
辞世の句「思う事つくしもはてず さそはれて かへらぬ旅に 心のこして」求策の無念さが伝わってきます。
※参考:安曇野ゆかりの先人たち